きく

盤珪

うぐいすが鳴けば耳に聞こえるわ



盤珪禅師


仏心は、不生にして霊明なものでござって、不生で一切の事が調いまする。

その不生で調ひまする証拠は、皆の衆がこちらを向いて、身共が云ふことを聞いてござるうちに、後ろにて烏の声、すずめの声、それぞれの声が、聞かうと思ふ念を生ぜずに居るに、烏の声、雀の声が通じ別れて、聞き違はず聞かるるは、不生で聞くといふものでござる。

そのごとくに皆、一切の事が不生で調ひまする。




さて、不生(ふしょう)なが仏心、仏心は不生にして、一切の事がすらりすらりとよく調いまする。

ひょっと仏心を念に仕替えますれば、はや不自由になりまするわいの。

譬へば、女中方が縫ひ物をしてござる所へ、人が来まして、はなしを仕掛けまする。

不生にて縫うたり聞いたりしまするまでは、両方が調ひまするに、若し、一念を生じまして、対応せう(しよう)と、はなしに機(気)が付きますれば、縫い物の手が留まりまして、また、縫い物に念が生じ、機が付きますれば、はなしを聞き落として、はなしの埒(らち)が明きませぬわいの。

これは、仏心が不生の場を退き、仕替へまして、念が一事に貪著(とんじゃく)しまして、外の事は欠けて、不自由になりまする。





親より受けました仏心は、不生にして霊明なものござって、知恵才覚をまじへず、一念も生ぜぬ先(前)に、一切の事が通じて別れまする。

迷ひの悟りのと、貪著なしに、一切の通じ別れたる分で居たがようござるぞいの。 

事々に任せますれば、向ひの者が、いやともに埒を明けまする。

是は 仏心は霊明なる徳が備はって、一念を生じずして、研ぎたてたる鏡のやうに、手前には知らず存ぜずに居ますれども、先(先方)から夫々(それぞれ)の埒を明けまするわいの。




見ようの聞こうのと存ずる念を生ずに、見知り聞き知りいたす所が、面々に備はりたる仏心は、不生にして霊明な物の証拠でござる。

この見ようの聞かうのと存ずる念の生じませぬが、不生の事でござる。 ⇒ しよう




皆、身共がいふに打任せて、先ず三十日、不生で居てみさしやれい。 三十日不生で居習はしやつたらば、それから後には、おのづから居とむなうても、いやでも不生で居ねばならぬやうになりまして、見事不生で居らるるものでござる。 

不生なが仏心でござる所で、平生 仏心一つで、働き居るといふものでござる。 さてすれば、今日の活仏ではござらぬか。




元来、念のないものが 不生の仏心でござる





「見ること」は、さあ見ようという意図(念)でスイッチを入れたから起動したのではなく(不生)、

「聞くこと」は、さあ聞こうというスイッチを入れたから起こるのではない。

深い、気絶したような眠りの中に、「私」はいない。

気絶状態から急に目覚めるとき、数秒の間、目は見ているし、耳は聞いている。しかしまだ、そこに「私」はいない。

ここはどこ?という問いとともに思考が起動し、さらに数秒かけて「私」が再起動する。

自分が誰であるかを思い出すまでの間、「私」抜きで、身体は穏やかに呼吸を続けている。光景はくっきりと目に映り、音ははっきりと耳に聞こえている。

すべては、言葉のないレベル(念不生)で、既に常に(今この瞬間)働き続けている根源的な知性(仏心)の現れとして、起こっている。

見る者聞く者がおらずとも、見られ聞かれているのであり、「する者」抜きですべてが為されていく。

これは、生命の本性としての気楽さである。

人権は天賦のものでもなんでもないが、この気楽さは天賦のものだ。

多くの人は、何かを見い出そう、何かをしなければと思うことで、この天賦の気楽さを「見る者、する者」という重苦しいものに置き換えてしまっている。

自分で熟考して選択したと思っていることでも、ふり返ってみれば、「なんとなくそうなった」としか言いようがない事ばかりである。

これは、鶯が啼いたら「聞くスイッチ」を入れてやろうと熟考していたのに、鶯が啼いたとわかった時点で既に聞いたあとだと気づくのと変わらない。

何に構えることなく、この知性にいのちを預けて、見えるまま聞こえるままの気楽さにとどまれば、すべては間に合うようになっている。


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Last-modified: 2014-07-08 (火) 18:50:49 (1288d)