DancingDax




個人的に受け取らないこと

「見る」と言う場合、ありとあらゆるものが見る対象になるが、

「見られる」という言葉を使った場合、その対象はたったひとつしかない。「わたし」である。



「他人が自分を見る」という事実の記述と


「他人に見られる」 という考えと、 



この2つは まったくの別のものである。


誰かが 自分の事を指差して、あるいは、名指しでバカにしたとする。

その人は、私に向かって、貶めるような言葉を発した。

これは事実についての記述だと言ってよい。




しかし、 

「その人に、バカにされた。」と言うと、それは 事実の表現ではない。


「その人は、お前はバカだと、言った」のである。

行為をなした人(主語)は、「彼」であるが、 「された」という受動語を使うと、主語を「私」にスリかえることになる。




される、られる、という表現は、 完全なフィクション(ものがたり)であり、白昼夢の世界でのみ成り立つ言葉である。


「他人に、こう見られたらどうしよう。」

「他人に、こう思われたらどうしよう。」

「他人に、こう言われたらどうしよう。」



これらはよく聞く表現であるが、「どうしよう・・」という 意味不明の言葉は何なのだろうか。

無理に(白昼夢の世界で)作った物語の出来のわるさを、誤魔化そうとしているのではないだろうか?



「主語」を捏造した物語であるから、うまく つじつまが合わない(論理が破綻している)のである。

「彼が・・・」で 始まるはずの文章が、 「私は・・・」で始めてしまっているのだから、どうしても無理がある。

「誰かをバカにすること」は、誰にとっても許されている。

自分も他人をバカにしているし、やめるつもりもないので、「バカにすること」そのものを 否定するつもりはない。

しかし「私」をバカにすることだけは誰であっても許されない・・・

という、成り立たない理屈をなんとか組み立てようとして矛盾に陥っている。



「とにかく、私は バカにされるのは嫌だ」とすんなり言ってしまうと、ただの子供っぽいワガママであることが、バレてしまう。

つじつまの合わないことを言っていること自体も、子どもっぽい。

「子どもっぽいやつだ」と 人に バカにされる(見られる)てしまっては、元も子もない。

そこを誤魔化すために、被害者風をよそおい、「どうしよう・・」と、言葉をにごすのではないだろうか。



このごまかしを外してみると、





他人をバカにしてもよい ・・そして・・ わたしをバカにするのは、止めろ。」



となる。

論理がなりたっていないことが明確に浮かび上がってくる。

そして、この文の骨格が、許可と禁止命令の言葉である事がはっきりする。




誤魔化そうとしているのは、論理破綻のほうではなく、この「上から目線」のほうなのかもしれない。

「偉そうな、嫌なやつだ」と、人に思「われる」のが、恐いのだ。





「どうしよう・・」というつぶやき方は、自分では決められない。という迷いを表現している。

しかし、ここで述べているような使い方をする場合、

自分には選ぶ力が無いから、

自分が決めたわけじゃないのだから、

私には責任はありませんよ。

という責任の回避の保険をかけているのではないかと思える。

自分が行動を起こさないことへのいいわけ、正当化である。

もしそうであれば、この人は なにより、「責任=責め」を負うのが、ものすごく怖いのである。

責めを負う というのは、 誰かに「責められる」 ということであり、ここにも「される」が潜んでいる。


そもそもが、「られる」「される」という 言葉を使ったのがこの 混乱の始まりのように見えるのだが、あらゆることを、自分を主語(主人公)にして 語ろうとすると、どうしてもこの類の言葉を選ぶことになる。


なぜこういうことが起こるのか。

自分で自分自身を認めるのに、他人の目(承認)が必要だと思い込んでいるのだ。

「受動態」は、単なる表現形式ではなく、強い欲望を示している。

見ることに、興味があるのか? それとも、見られることに興味があるのか?

「見て」いたいのか? 「見られて」いたいのか?

見られたい、とは、注目を受けたいということであり、他人が自分に向けて注意を集中することそのものが、基本的に「美味しい」のだ。

たいていの見られたいは、見られたくないとセットになっている。

「見られたくない」は、「見られたい」の裏返しであるから、どのように「見られたくない」のかがわかれば、どのように「見られたい」かがわかる。

バカにされたくないのであるから、その反対は、「おお、たいしたもんだ」と見られたい。

他人に見られるとき、「並み」では嫌なのだ。それでは、注目を集められない。

逆に、「並み」の群れから大きく飛び出してしまっても、注目が届かない。

しかし、注意を引きつけることの持つ快感はもはや、麻薬的であるとしかいいようがない。

おそらくは、この快感が先にあり、その裏に それを失う恐怖がくっついてくる。一種の、中毒症状なのである。

「バカにされる」とは、「軽く見られる」⇒「誰にも、見られない」につながるのであり、恐怖のポイントはそこにある。

「バカにされるのは嫌なくせに、他人をバカにするのは止めない」というのも、矛盾しているように見えるが、自分の幻想世界の中で自分というキャラクターを「飛び抜けた人」として設定するためには 他のキャラクターのポジションを押し下げることはどうしても必要になるから矛盾はないのである。

他人の夢の世界の中で、私のポジションが押し下げられたからといって、それは、その人の頭の中だけで起こっているローカルな変化であり、現実の世界を変える力はない。

しかし、その(他人の)世界から飛び出してきた言葉を自分の頭の中に持ち込むと、「私の夢の世界」全体を書き換え、「世界全体」から見放されることになってしまうのだ。

たとえば、自分が日ごろバカにして(下に見て)いた人間にバカにされた場合、自分の世界の中でその人は「見るべき価値」もなかったのに、さらに その下に自分を位置(価値)づけることになる。

もちろん、たった一人の人にほめられただけで、正反対の幻想が形成されることもありうるのだが。


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Last-modified: 2017-11-03 (金) 06:39:10 (75d)