DancingDax

魂を裏切らないとは

どういう行動を選択するか、 選択したか、

何をどうするか、 何をどうしたか、

という事とは

一切、関係がない。

いま、ここにあるものが、

それがどんな感覚であれ、

目をつぶらないこと。

耳を塞がないこと。

開いていること。


閉じること だけが、 魂を裏切ることである。


味わう とは

嫌がらずに 感覚と 出会うこと。

気持ちを込めて、感じ取ること。

柔らかい、温かい、注意を、注ぐこと。


自分がみている対象(モノ)、

私の目に見られているモノ(自分のイメージ) が、

それが、如何に汚く醜いものであろうと、

見ている自分 は、とんでもなく透明ですかっとしている。


やってみないと 分からない。

すべてが、そうだ。

分からないまま

踏み出すということだ。


脳が見ている「現実・事実」と、 実際に身体が生きている「現実・事実」とがズレること。

こころは、言葉とイメージ、記憶で作り上げた現実を見る。

こうあるべき

あるいは

こうあるべきではない

という、過去(いつか誰かから手に入れた価値観)のフィルターを通して見ている。

しかし身体は、いま、ここに「しか」居ることが出来ない。

「あるべきではない」ものなど、見たくない。

「あるべきではない」ものなど、聞きたくない。

そんなものは 感じたくない、味わいたくないと、思考が動く時でも、

それらの言葉が「聞こえて」いるからこそ、そう語ることが可能になる。

思考することですら、魂の働きなしには成り立たない。

思考は、魂を、自分の「所有物」だとみなすことで、「自分の力で考えている」と思いこむ。

この思い込みの中では、

魂のすべての力は、所有主である「私」のモノであり、

自分「が」見て、 自分「が」聞いて、 自分「が」感じている 自分「が」考えている と、 思いこんでいる。

実際は、「完全に」魂に依存しているにもかかわらず、 魂と身体は「言うことを何でも聞くべき奴隷である」と、思いこんでいる。

このような思考と魂との有りようが、 そのままそっくりの人間関係の形を生み出す。

小さな子供が屈託なく笑っているのであれば、何が起こっていようと、どんな形の生活であろうと、イケナイということはない。

そういうかかわりの中では、大人の魂も、にこにこしている。

人々の魂が息を詰めているような社会の中では、小さな子供たちの顔もこわばってくる。

恐怖(未来)に閉じ込められた魂のありようが、その人の周りに同じ形の社会、人間関係を作り出す。

小さな子供たちにとって 親や大人たちは、 自分を閉じ込める箱「そのもの」となる。


見ることに、分裂などない。

まとまった思考とか、 一連の思考の結論としての事実 などというものも、ないし

考える人というものもない。

ただ、ただ、

順々に

ひとつひとつ

言葉が

生まれては消え

生まれては消えるだけだ。


思考を、思考として、聞いているのだろうか。

思考を、事実と 見なしているのだろうか。

どちらが、いい とか、悪い ということではなく。


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Last-modified: 2015-01-12 (月) 10:08:00 (1101d)