操体

操体法

原始感覚

すべての対応(行為)は、認知(知覚)から生まれる。

認知に歪みがなければ、「対応=動き」にも、歪みがない。

刻々の現在進行形の活動として、原始感覚だけがある。

生き物に原始感覚が「備わって」いるのではない。

原始感覚とは、むしろ、生命現象そのものである。

原始感覚としての不快感

意識の中には、常に不快感覚が現れ続けている。*1

何をしていても、何もしていなくても、 いつ、どんな状態にあるときでも、 目を向ければいつでも確かめることができる。

そして、思考であろうが、感情であろうが、あるいは、一生に何度もないような大決断であろうと日々繰り返されるルーティンであろうと、生死のかかった危機回避、 傷ついた肉体の治癒プロセス、呼吸や食べること、他人に対する態度や表情の作り方に至るまでのありとあらゆる「動き=行為=行動」が、「不快感」から生まれてくる。

もの凄く興味をひく(面白そう、美味しそう、美しい)ものを目にしたとしよう。

その時生じるのは快感であるが、一瞬後には不快感に変わる。

快と不快はモーターの磁石ようなもので、 プラス磁石だけでも、マイナス磁石だけでも モーターは回らない。

生命の動きは不快から生じ、快と不快との間をくるくると回り続ける。*2

「快感」のままであるなら、人はそのまま動かず、陶然としていつまでも立ち尽くすことになるはずだが、実際は、近づきたくて居てもたってもいられなっているなるはずだ。

じっとしていることへ不快感から逃げ出したい、という衝動が生まれている。

「不快感」の感受が純粋であれば、「動き」に必要なエネルギーが供給され、自動的に「動き」のスイッチが入る。

逃げる方向はもちろん「関心の対象」に向かう方向であり、「近づく動き」である。


不快感から生まれる対応、すなわち、動き=逃走 には二種類あるように思われる。

「感じること」そのものから逃げる動きと、 「不快感そのもの」から逃げる動きと、の二つである。

「感じることから逃げる」とは、両手で目や耳を塞ぐ、というような「動き」である。

「不快感から逃げる」とは、よく見ようと振り向き、あるいは耳を澄ませるという「動き」である。

目や耳を塞ぐなら、対応=行為は的外れになる。

的外れな行為は方向修正の要請として新たな不快感を生むので、種類の違う不快感が絡み合って複雑化する。

これは、遠回りするための道を作り出しているようなものだ。

事実(不快感)から目をそらし、推測や仮説、想起や原因の分析を組み合わせることで思考の迷宮を作り出す事が出来るのである。

耳を塞いでいる状態なので、いったん迷宮に入り込んでしまうと外から呼んでも聞こえず、なかなか出てこないということになる。

何もない空間であればここからそこまで10歩で行けるが、周囲に迷路を築けば何千歩もの距離を作り出すことができるし、不快感を敵(モンスター)とみなすバトルゲームを楽しむことができる。

やり甲斐のあるゲームではあるのだろうが、耳や目を両手で塞ぎ続けているのだから、危ない遊びをしていることには変わりがない。

いま、ここにある不快感を、その純粋性を損なわずに味わうなら、嫌がらず(頑張らないで)に耳を傾けるなら、10歩の直線があるだけであり、感じること、は即、動くことである。

身体にはさまざまな感覚が生まれたり移動したり消えたりしているが、「なんともない」とおもっている感覚であっても同じものを積み重ねてみればその正体がはっきりする。

立ち仕事の後、ソファに腰を降ろしてホッとしても、数分から数時間の内にお尻の当たっている座面の感覚が強くなってきて、姿勢を変えたくなる。

不快感は生命を成り立たせている最も基本的な感覚であり、物質における素粒子のようなものである。

ならば、もはや、不快感と呼ぶのはおかしい。

意識に映るほとんどの感覚の実体は不快感なのだが、「イヤ」と思うほどのことでもないので、【感じる=動き】ということがごくごく自然に無意識的に展開している。

「イヤ」と拒絶するほどの強い不快感覚に遭遇することはそうそうなさそうに思えるが、実際には多くの感覚をイヤがっている。

本音ではかなりイヤなのに、「このくらいの事はみんなガマンしているのだから」というようなわけのわからない理屈で目と耳を塞ぎ、「無いこと」にしてガンバっていることも多い。

まさのそこのところで「動き=生命の流れ」は堰き止められる。

時々動作を止め、身体全体をさっと俯瞰してみれば、「イヤ」と感じている感覚が見つかるはずだ。

その感覚を、『イヤ』を外した「涼しい目」で感じ直してみる。

好き、嫌い、よい、悪い、正しい、間違っているという価値観をすべて脇において、「感覚」そのものに目を向ける。

混じり気なしの純粋な不快感が感じ取られた瞬間から、生命は再び動き(流れ)を取り戻し始める。

ここに我慢や努力の要素は微塵もない。

もし、なんとかしよう、この不快感を消してやろう、という動機=不純物が混じりこんでいるようなら、再びモーターは止まるので、その努力感覚(身体の緊張)を確かめ、脱力する。

なにもかもやめてしまった目、一切の積極性(能動性)を捨て去った目に映る不快感は、それが痛みであれ、焦り、怒り、恐怖、不安であれなんであれ、純粋である。


不快感が生まれ、 不快感は動きを生む。

不快感は動きで消滅し、 肉体は次の不快感を待つ。

息を吸いきった不快感は、 息を吐き始めることで終わり、

息を吐ききった不快感は 吸い始めることで終わる。

呼吸に限らず、ありとあらゆる不快感は刻々と生まれる 新しい不快感、「初めの」不快感である。

不快感が生まれないなら、 行為としての生はなく、 肉体はそこで終わる。

不快感から行為がうまれるのは、 それが感じ取られ(見られ)るからである。

不快感が感じ取られるまで行為は現れず、不快感はそこにあり続ける。

「初めの不快」を嫌うとき、それから目(意識)を逸らすために思考の働きを使って別の不快感(問題)を作り出し、これを解決する動きの探索(思考)に集中することが出来る。

思考(解決の道を探索)し続けているあいだ、初めの不快感は視野(意識)の端に追いやられている。

視野の中心を占める「作られた不快感」が見えなくなる(問題が解決してしまう)と、「初めからある不快感」がまた視野に入ってきてしまうので、すぐさま次の問題を捜す。

この合間に見えてしまう「初めの不快感」をちらりとでも見てしまえば、 嫌でも動き(行為)は起こる。


*1 それと同じだけの快感もまた、生まれ続けている。
*2 呼吸を観察してみると、呼気の後半は不快であり、吸気に転じた瞬間快に変じるが、吸気の後半はまた不快が生じる。このように、快と不快は交互に生じながら、モーターのように動きを生み出し続けていることがわかる。「ずっと快感に留まりたい」という欲望は、絶対不可能な幻想である、ということが見えてくる。

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2017-11-02 (木) 17:14:52 (75d)